政権が変わっても・・・
2009年7月21日 連載政権が変わったら?
余り期待できそうにもありません。その理由は、エネルギー政策を審議する
経済産業委員会のメンバーが尽く、その利権に繋がる連中によって抑えられ
ているのです。
最も社会の基礎となるエネルギー部門は巨大な利権産業の支配下にあるので
す。
では、どうするのか・・・。
やはり、地域のエネルギーの自給力を増やしていくと言う当たり前のことを
粛々と地域で進めていくしかなさそうです。そこには多くの障害があります。
その障害を取り除きながら、かつ、主体的に取り組んだことの無い人たちに
理解を求め、自然エネルギーの持つ可能性を理解してもらわねばなりません。
(まあ、何と面倒くさい仕事でしょうか・・・。しかし、これを成し遂げね
ば私たちの歴史の未来は拓けません)
若干の期待を持てるのは、既存の産業資本や官僚組織の利益の為の政治とは
違う方向性を見せようとしている点でしょう。
だた、現場は地域社会にしかないのです。そこで地道に自立できる経済構造
への変更を訴えて変えて行くことしか道は無いようです 結局、自分たちが
やるしかないのです。おねがいします。はい、(公金を)使ってしてあげる
ねという仕組みはもう動かないでしょう。
自分たちのことは自分たちでやるんだ。決して人任せにしないと言う話です。
後出しのじゃんけんを誉めるような仕組みは誰が見てもフェアーではありま
せん。私たちの社会がそうした敵対的な余分な気を使わねばならないもので
あるよりは、その時間も能力ももっと生産的に使えるようにするべきでしょ
う。そして、一方的に収奪する仕組みは変えねばなりません。
結構、衝撃的な数字を聞きました。米を作ると時間給幾らになるのかという
試算です。
最低賃金が600円のこの時代に、米を作ると何と300円なのです。さて、
誰がそれをするでしょう?
私はお断りします。
えっ?では何で米を作っているのだ?
と聞かれるその答えは自分が食べる米は自分で責任を持って作りたいからだ。
人任せにしたくないからだ。儲からない嫌なことを人に押し付けたくないか
らだとお答えしましょう。
私は時給5000円とか貰って楽をして、誰かに時給300円で米を作らせ
たいとは思わないということです。それは余りに人に対して失礼ではありま
せんか・・・。
でも、今の社会は、恥ずかしいことに嫌なものを人へ押し付ける仕組みで動
いています。これはとても恥ずかしいことです。人の金を転がして金が金を
生む仕組みが最も最先端なのだと言う転倒した世界。
資源と言うストックを早いもの勝ちで奪う世界。掻き立てられた欲望をひた
すら満足させようと競争し奪う社会。富は奪い合うものだと言う発想が根底
にある貧しい社会。
こういう風に考えるだけでうつ病になりそうです。はい。
都市の周辺部がスラム化しています。生産する現場がありません。自分が食
べるものがどのように作られているのかを見ることも出来ません。それはお
金と引き換えに投げ与えられるのです。
そこで消費者となる人たちにはその向こう側が見えません。瞬間的に飢えを
満たしのどの渇きを癒すものが自分たちの奪われた時間と引き換えに与えら
れるのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日の宮崎は曇っていて風が吹いているものの、気温は既に30℃を超えて
います。どうも30℃を超えると頭が働きませんので、近くのファミレスに
避難しています。エアコンの電力は 自宅で作った分がここまで届いている
でしょう。自宅はもぬけの殻で、系統へと電力は供給されています。むしろ、
自宅でエアコンを使うって自分だけ涼しい中に居るのではなく、ここでのエ
アコン需要に役立っているなら人のためにもなっているでしょう。
つまり、系統に繋がっていると言うことはそう言う事です。この私が太陽電
池という生産財を持って社会に参加することが人々の生活を豊かにすること
に繋がっているのだと言うことです。
この辺りは、電力会社の株を持って=原子力発電所を持って核廃棄物を作り
ながら汚い電気を社会に押し付けて利益を得ると言うのとは対極に有る気が
しますよね。どちらが望ましいでしょう?
私たちは簡単に言えばどちらを選択するかを問われているのだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、ここ宮崎ではどれ程の人間が食べていけるでしょうか?実は食糧生産
の潜在的な能力は、ここではほぼ2倍程度にまで増やすことは出来るのでは
ないかという話です。米は2回、さらに麦も出来るのではないかとの話です。
まあそれは無理にしても確かに米が一度と言うことはありません。農地の利
用形態としては雪が降る地域に比べれば2倍から3倍程度の生産力は有りそ
うです。
多分、それ故にここ宮崎が日本の神話の発祥の地になったのでしょう。でも、
その生産力を十分に生かしきっているとは思えません。そういう意味ではこ
こ宮崎の潜在力はまだまだ眠ったままでいるのです。
※嘗て、木炭の産地であった宮崎の山は石炭から石油への燃料革命で一気に
その価値を無くしてしまい、そこで生きていた多くの人たちが山から都市
の産業資本の工場へと移っていきました。そして、その山には杉が一気に
植えられてしまい保水力を失うと同時に多様な命を支えるだけの真の生産
力すら失わされてしまいました。里山も奥山すらもが杉の単一植生にと、
つまり工業の発想で塗り潰されてしまったのでした。
でも、そろそろ起きてもらわねばならない時期に来ているのではと言う風に
も思えます。
この地球に降り注ぐ太陽エネルギーを取り入れることで私たちは持続可能な
新たな未来を拓くことが出来るのです。その流れを変える仕組みを作ること
が必要です。
確かに、人から富を奪い取るこれまでの仕組みとは対立はします。が、その
仕組み自体が既に破綻すると言うことが明らかになっている以上、その仕組
みを動かすことは未来へ不良資産を積み上げることにしかならないのも明ら
かです。それなのに・・・。
九州の電力を一手に握る九州電力はあの川内原発に150万キロワットとい
う巨大原発という不良資産を建設しようとしている・・・。
自然エネルギーへの転換。遅かれ早かれしなければならないことなら早めに
しておくほうが不幸を増やさないで済むでしょう。そうした合理的な判断が
出来る筈です。それだけの知見をわれわれは既に持っているのですから・・
・。
未来から今を見るなら、明らかに不良資産を増やすことになるものに金を使
うのは無駄です。
余り期待できそうにもありません。その理由は、エネルギー政策を審議する
経済産業委員会のメンバーが尽く、その利権に繋がる連中によって抑えられ
ているのです。
最も社会の基礎となるエネルギー部門は巨大な利権産業の支配下にあるので
す。
では、どうするのか・・・。
やはり、地域のエネルギーの自給力を増やしていくと言う当たり前のことを
粛々と地域で進めていくしかなさそうです。そこには多くの障害があります。
その障害を取り除きながら、かつ、主体的に取り組んだことの無い人たちに
理解を求め、自然エネルギーの持つ可能性を理解してもらわねばなりません。
(まあ、何と面倒くさい仕事でしょうか・・・。しかし、これを成し遂げね
ば私たちの歴史の未来は拓けません)
若干の期待を持てるのは、既存の産業資本や官僚組織の利益の為の政治とは
違う方向性を見せようとしている点でしょう。
だた、現場は地域社会にしかないのです。そこで地道に自立できる経済構造
への変更を訴えて変えて行くことしか道は無いようです 結局、自分たちが
やるしかないのです。おねがいします。はい、(公金を)使ってしてあげる
ねという仕組みはもう動かないでしょう。
自分たちのことは自分たちでやるんだ。決して人任せにしないと言う話です。
後出しのじゃんけんを誉めるような仕組みは誰が見てもフェアーではありま
せん。私たちの社会がそうした敵対的な余分な気を使わねばならないもので
あるよりは、その時間も能力ももっと生産的に使えるようにするべきでしょ
う。そして、一方的に収奪する仕組みは変えねばなりません。
結構、衝撃的な数字を聞きました。米を作ると時間給幾らになるのかという
試算です。
最低賃金が600円のこの時代に、米を作ると何と300円なのです。さて、
誰がそれをするでしょう?
私はお断りします。
えっ?では何で米を作っているのだ?
と聞かれるその答えは自分が食べる米は自分で責任を持って作りたいからだ。
人任せにしたくないからだ。儲からない嫌なことを人に押し付けたくないか
らだとお答えしましょう。
私は時給5000円とか貰って楽をして、誰かに時給300円で米を作らせ
たいとは思わないということです。それは余りに人に対して失礼ではありま
せんか・・・。
でも、今の社会は、恥ずかしいことに嫌なものを人へ押し付ける仕組みで動
いています。これはとても恥ずかしいことです。人の金を転がして金が金を
生む仕組みが最も最先端なのだと言う転倒した世界。
資源と言うストックを早いもの勝ちで奪う世界。掻き立てられた欲望をひた
すら満足させようと競争し奪う社会。富は奪い合うものだと言う発想が根底
にある貧しい社会。
こういう風に考えるだけでうつ病になりそうです。はい。
都市の周辺部がスラム化しています。生産する現場がありません。自分が食
べるものがどのように作られているのかを見ることも出来ません。それはお
金と引き換えに投げ与えられるのです。
そこで消費者となる人たちにはその向こう側が見えません。瞬間的に飢えを
満たしのどの渇きを癒すものが自分たちの奪われた時間と引き換えに与えら
れるのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
今日の宮崎は曇っていて風が吹いているものの、気温は既に30℃を超えて
います。どうも30℃を超えると頭が働きませんので、近くのファミレスに
避難しています。エアコンの電力は 自宅で作った分がここまで届いている
でしょう。自宅はもぬけの殻で、系統へと電力は供給されています。むしろ、
自宅でエアコンを使うって自分だけ涼しい中に居るのではなく、ここでのエ
アコン需要に役立っているなら人のためにもなっているでしょう。
つまり、系統に繋がっていると言うことはそう言う事です。この私が太陽電
池という生産財を持って社会に参加することが人々の生活を豊かにすること
に繋がっているのだと言うことです。
この辺りは、電力会社の株を持って=原子力発電所を持って核廃棄物を作り
ながら汚い電気を社会に押し付けて利益を得ると言うのとは対極に有る気が
しますよね。どちらが望ましいでしょう?
私たちは簡単に言えばどちらを選択するかを問われているのだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、ここ宮崎ではどれ程の人間が食べていけるでしょうか?実は食糧生産
の潜在的な能力は、ここではほぼ2倍程度にまで増やすことは出来るのでは
ないかという話です。米は2回、さらに麦も出来るのではないかとの話です。
まあそれは無理にしても確かに米が一度と言うことはありません。農地の利
用形態としては雪が降る地域に比べれば2倍から3倍程度の生産力は有りそ
うです。
多分、それ故にここ宮崎が日本の神話の発祥の地になったのでしょう。でも、
その生産力を十分に生かしきっているとは思えません。そういう意味ではこ
こ宮崎の潜在力はまだまだ眠ったままでいるのです。
※嘗て、木炭の産地であった宮崎の山は石炭から石油への燃料革命で一気に
その価値を無くしてしまい、そこで生きていた多くの人たちが山から都市
の産業資本の工場へと移っていきました。そして、その山には杉が一気に
植えられてしまい保水力を失うと同時に多様な命を支えるだけの真の生産
力すら失わされてしまいました。里山も奥山すらもが杉の単一植生にと、
つまり工業の発想で塗り潰されてしまったのでした。
でも、そろそろ起きてもらわねばならない時期に来ているのではと言う風に
も思えます。
この地球に降り注ぐ太陽エネルギーを取り入れることで私たちは持続可能な
新たな未来を拓くことが出来るのです。その流れを変える仕組みを作ること
が必要です。
確かに、人から富を奪い取るこれまでの仕組みとは対立はします。が、その
仕組み自体が既に破綻すると言うことが明らかになっている以上、その仕組
みを動かすことは未来へ不良資産を積み上げることにしかならないのも明ら
かです。それなのに・・・。
九州の電力を一手に握る九州電力はあの川内原発に150万キロワットとい
う巨大原発という不良資産を建設しようとしている・・・。
自然エネルギーへの転換。遅かれ早かれしなければならないことなら早めに
しておくほうが不幸を増やさないで済むでしょう。そうした合理的な判断が
出来る筈です。それだけの知見をわれわれは既に持っているのですから・・
・。
未来から今を見るなら、明らかに不良資産を増やすことになるものに金を使
うのは無駄です。
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